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無投薬・無医療での闘病 〜2007年から2009年の記録〜について

 
初めての無投薬・無医療によるアトピー性皮膚炎の治療から7年目。その後の経過を報告したいと思います。


この間、手記を読まれた方からさまざまな声を頂いてきました。「よくやった!」という称賛の声から、「無理をして・・・」、「そんなのあり得ない」といった声。そして同じ病に苦しむ方から、「自分もやってみて良くなった!」というものまで頂いてきたのです。


今回、私が新たに体験した、その後の手記の公開にあたり、正直戸惑う気持ちがあります。やろうと決めるまでは


「何のために?」、「そんなことを書いてどうなるのだろう?」


そう自問自答を重ねました。


この治療のあり方に理解があり、会社を挙げて応援してもらえる。それはあくまで私の特殊事情であって、社会一般ならばそうはいかない。「やっぱり難しいよ」、そうした声も聞こえていたのです。


それでも人と病気との関係、元気でいられることの素晴らしさ、また実際に病気や運命の不遇に直面した時に、もし万が一、私の体験が少しでもお役に立てるのなら、そう思うに至りました。


体験をした者が事実を報告する。


それは医療のあり方を考える大切な機会になるのではないかと考えるのです。



覚悟が必要!


また、前回の手記がハッピーエンドで終わっていることへの責任も感じます。あの終わりではあらぬ幻想を与えかねないと危惧するのです。医者にもクスリにも頼らず病気と向き合う、それは簡単な道ではない。それなりの覚悟だって必要になる。それが今の偽らざる実感です。


内容が内容だけに、実際に起きた、あるがままの事実をお伝えしていくつもりです。そして私の体験したことだけが唯一正しくて、普遍的な真理だと申し上げるつもりはありません。いつの時代も目的までの道のりはいく通りだってあると考えるからです。


病気という現象をさまざまな角度から考える材料になればと思い、手記を進めて参ります。


私はアトピー性皮膚炎の症状に苦しみ続けてきました。その間、12年にわたりクスリ・ステロイド剤(副腎皮質ホルモン)を使い続けていました。クスリの強度は弱いものから始まり、次第に強くなり、やがて最強へ。そして最強でも抑えきれないまでの激しい炎症に見舞われ続けていました。


最強度のステロイド剤。当然のことながら処方制限があります。リスクを考慮し、1回に出される量に制限が加えられる。しかしそんな量ではとても足りない。症状はエスカレートするばかりとなっていたのです。


たくさんのステロイド剤に頼らない限り、仕事も何もできなくなってしまう。クスリが切れた瞬間から、私は社会とつながれなくなってしまうのです。


そこで病院を掛け持ちして、クスリの絶対量を確保することにしました。多い時で4件の医院を周っていました。なくなってしまったらどうしよう・・・、思いはいつもそれ。日々、クスリの残量を気にしながら病院巡りをしていたのです。


長期間にわたり、ステロイドを使用すれば最終的には効かなくなってしまう。体が薬剤に反応しなくなることを頭では分かっていました。それでも危険は承知で、ものすごい量を使い続けていたのです。


クスリは私と社会とをつなぐ唯一の架け橋。医療機関は “3分診療”、だから私が大量のクスリをかき集めているなんて、医師には知られようのない事がらだったのです。


2錠と3錠を分かつもの


そのクスリが効かない。2003年の春ごろから、このことを感じていました。これまでのように効いてはくれない。大量のステロイドの投薬の果てに、私の体はもはや反応しなくなっていたのです。


血液検査の結果を見ながら、医師からこのように告げられました。


「もはや塗り薬だけでは間に合わない。今日は飲み薬を出します。この薬はとても危険な部類のものだから1日に2錠だけ。それ以上は絶対に飲んではならない。このことを私と約束できますか?」と。


この小さなクスリ。その2錠と3錠との間にある大きな壁。生命を左右しかねない段階にまで私は進んでしまった。


家に帰って、感情が一気に噴き出しました。自分ばかりがどうしてこんな目に遭うのだろう。それなりにまじめに頑張ってやってきたのに・・・。思っても仕方がないにも関わらず、どうにもならない。声をあげて泣いた日のことを思い出します。


それから275日を費やし、私は無投薬・無医療の闘病を行いました。
そのことは、前回の手記で報告した通りです。


出して出して!から出ない!出ない!へ


前回までを一言で表現するなら、“出して出して”。過去に入れてきてしまった薬剤などの異物をひたすら皮膚から排出していく作業。辛いからという理由で、体からの自然な反応を一切止めない。ただひたすら症状に従うのみ。


厳しい症状は私に必要な掃除のようなもので、体を元の自然な状態に戻すためのもの。そう思い定めてひたすら耐え抜くことに終始したのです。


初めての闘病を終えてからも、何度か同じような症状を経験しました。3ヶ月、2ヶ月、1ヶ月と、期間は短くなり症状も緩やかになっていたのです。排毒を終えて、仕事に復帰する。こうしたサイクルを4回ほど繰り返していました。

そのたびごとに、完全治癒に向けた自信を深めていたのです。


おびただしいシコリ


変調が訪れたのは、2007年の夏ごろ。初めての排毒から4年が経ったころに明らかな変化が訪れました。たくさんのシコリが至るところにでき始めたのです。これまでは水泡、引っかくと水が流れるといった具合だったのですが、シコリ・腫瘍へと変化しました。悪寒も始まり、ハチに刺されたかのような腫瘍が体中におびただしくなっていました。強いカユミはなく、ただ硬くて弾力がありコリコリとしている。


「もしかしてガンなのではないか?きっとそうに違いない。全身にガンがまわってしまったのだ」。


そんなことを思っていました。そして悪寒と腫瘍とがエスカレートするに従い、覚悟を固めました。


今回ばかりは簡単にはいかない。きっとこれまで以上に長くて厳しい闘病になるだろう。だから倒れる日まで悔いのないように過ごそう。そう自分に言い聞かせながら仕事を続けていたのです。


そう思いつつも、もし次の闘病を終えたなら、身の丈にあった道を模索しなくてはならないだろう。自分の限界を思わずにはいられなかったのです。


私の務めていた会社は食と農、生活環境の現状に対して、問題解決を提示していく団体。いわば社会を変える、そうした志を持った集団。仕事は常に創意工夫を迫られ、どんなことでもやらなくてはならない。


その中で、私のようなハンディを抱える者には厳しい面だってある。だから倒れるまでは全力でやり遂げる、でもその後についてはまったく白紙。そんな気持ちが募っていたのです。


症状へのつらさが抜き差しならなくなるに従い、倒れたその日を最後に退社しよう。決意は固まっていきました。私は体の変調とその深刻化を誰にも打ち明けることなく過ごしていたのです。


やりきった気持ちで


ついにそのときが来ました。2007年11月7日、もはや動けなくなっていました。背中の腫瘍が破れ、大量の毒血が流れ始めたのです。肩、肩甲骨、背骨、尾てい骨のあたりにコブのような大きな腫瘍がある。破れた背中にシャツがベットリと張りつき、身動きが難しくなっていました。その前から続いていた悪寒はより一層の激しさとなっていたのです。


「すべて終わった。でも自分は十分やりきった。」


体のつらさと裏腹に、心には妙な達成感がありました。ハンディがあるにも関わらず、ここまでがんばることができた。そのことに悔いはない。これまでに何度も倒れ、会社に迷惑をかけてきている。まずは進退を明らかにして、背後の道を絶つ。その上で排毒に臨もう。そして良くなった暁には自分に適した新しい道を模索しよう。


私はその日のうちに、社長に辞意を伝えました。“倒れるまで!”と心に決めていたためか、どこか清々しい気持ちすら感じていたのです。


社長からの返事は、「それは元気になってから考えればいいことなんじゃない?いまそんな状態で決断するようなことではないよ。今は闘病に専念する、まずはそのこと。終えてから次のことを考えればいいんだよ」、そうした答えが返ってきました。


私は張り続けていた糸が切れたような気持ちでいました。ありがたい言葉にも、とりわけ感慨を覚えることもないまま、横浜の実家に戻り療養生活が始まりました。


再び寝たきりへ


背中の次は胸、胸の腫瘍が破れはじめたのです。またそれは下半身一帯、全体に広がっていきました。毒血が固まり、全身が突っ張る。傷の痛みを伴い、半寝たきりの状態へ。


ヒジの裏表も同じように固まっていき、腕は伸びなくなりました。ヒザの裏、足の指、陰部といった具合に全身が硬直し、身動きがとりにくい。こうして、すべての動きが封じられていったのです。


2007年12月に入ると、顔と頭に回ってきました。耳の横がぷっくりと膨らみ、頭はボコボコとたくさんのコブがある状態へ。掻くとそこが破れ、毒血が流れる。アゴの下もパンパンに張り始めました。目の周りからも激しい毒血が流れる。乾くと目が開かないので固まった毒血をセロテープで取り除く作業にかかる。


そうでもしないと目が開かなくなってしまうのです。


症状の厳しさはあるものの、それはこれまでにも経験済みのこと。ある面で体の掃除は順調に進んでいるように思っていました。1月いっぱいで排毒を終えて、2月には仕事ができる状態へ。そんな思いでいたのです。


年が明けて、2008年。症状は続いていました。でも、いつもならそろそろ終息に向かう頃合い。そう思ってみても、待てど暮らせど終わってくれない。今までなら体からの水や毒血が止まれば、傷が塞がっていき、しばらくして元気な状態に戻ることができた。でも今回はそうはいかない。また新たなコブが全身にでき始めたのです。


カユミがあるため、それを強力に引っかいてみる。それでもどうにも破れない。体中にシコリを抱えたまま、呆然とする毎日を強いられました。


“出して出して”から“出ない、出ない”へ。適切な例えではないかもしれませんが、それは「下痢」と「便秘」との違いといえるかもしれません。掻いても、何しても、どうにも出ようとしてくれない。それは体の深部に巣食い、滞留し続ける薬剤。それらを排出する時間でもあったのです。


化学栽培と有機栽培の違い


このことから肥料も農薬も使わない自然栽培の内容を思い返していました。


有機栽培から肥料も農薬も使わない「自然栽培」に移行するのは難しいケースが少なくありません。理由は土が有機肥料を異物と認識できないことによります。


化学肥料の場合は、明らかに自然界に存在しない物質だから土は異物と認識できる。いわば“水と油”の関係だから分離しやすい。そのため排出が比較的容易で、自然栽培への移行が短く済む傾向があります。


でも、有機は家畜の糞尿に代表されるように、自然界に存在するものを肥料に使います。土はそれを異物と認識せず、つかみ込んでしまう。有機肥料が化学肥料に比べて“肥効が長い”と言われる由縁は、土が肥料分を長く持っていてくれるからと考えられているのです。


私は12年にわたり、化学合成薬・ステロイド剤を使用してきました。その驚くべき効果を身を持って知っています。使えばタダレ、び乱してしまった炎症が、何ごともなかったかのように収まっていく。その即効性には何度も助けられてきました。


でもそれはどんなに塗っても「抑える」だけ。治癒には決して至らない。依存しなければ生きられなくなっていく。不安からさまざまな情報を収集する中で、漢方は体質改善を促し、根本治癒へと導くものだと知りました。それから都合4年くらい、漢方の飲み薬と塗り薬をステロイド剤と並行して使っていたのです。


私は医者でも研究者でもありませんから、自分に起きた現象を医学的に説明することはできません。でも自分の中では有機栽培と同じで、これまでの漢方系の異物を排出する段階に来たのだと認識していました。出ない理由は過去のクスリの成分を体の組織がつかみ込んでしまっているからだと思っていたのです。


恐怖の汗


出ない状況で、一番つらいのは「汗」をかくこと。体温が上がりちょっとでも汗がにじむと、体の中で薬毒が暴れだす。私はこれを「発作」と名づけていました。


その辛さは何とも言い難いもので、電流が走るような苦しみが全身を走ります。表現が難しいのですが、血が逆流していくかのような感覚。血管を破って血液が奔流する、そのような暴風雨が吹き荒れるのです。


嗚咽しもだえながらも、ただひたすら耐えるより他にない。でも、こればかりはどうにも耐えがたい、私はとにかく汗をかかないようにと、細心の注意を払うようになっていったのです。


食事の際も、熱いものは口にしないように心がけました。汗をかけば、発作が始まり食事どころではなくなってしまうからです。医者にもクスリにも頼らない以上、食べなくては厳しい排毒を乗り越えることができません。症状を上回るだけの体力さえあれば乗り越えられる。その体力の源は日々の食事。


体力が症状に負けてしまえば、それは命の終わりを意味する。良くなるためには無理にでも食べなければならないのです。


それは分かっているものの食べるのが怖い。食べれば体温が上がってしまうからです。体温が上がれば自然に発汗が始まる。汗がこわい、とにかくこわい。そんな脅えた心のままで、細心の注意とともに必死に食べ続けた日々。


真冬だというのに近くにはいつも扇風機を置いていました。汗がにじみ始めると、スイッチを入れ、風をあてることで抑え込む。そのようにして過ごしていたのです。


避けられないのは入浴後。それなりに排毒し、新陳代謝もあるわけだから体は洗いたい。でも入浴後には恐るべき苦痛が待ち受けている。入浴で体温が上がると、そのあとは決まって強い発作に見舞われる。それによる苦痛に耐えなくてはならず、つらさでうめきもがく。これは前回までもありましたが、さらにエスカレートしていたのです。


少しでも汗をかけば、のた打ち回らねばならない。そんな自分の境遇を思うと、心の中は不安に塗り潰されてしまうのです。


「こんな有様でこの先どうやって生きていけばよいのか?」
「両親がいなくなってしまえば、自分はどうなってしまうのか?」
「もうただ呼吸し、寝て、排泄するだけの人生になってしまうのか・・・」

そんなことばかりを思っていたのです。


孤独の穴を掘り続けて


その反面、希望だって捨てられない。「来月にはきっと元気になれる」、何の根拠もなくそう思い始める。“来月にはきっと良くなっている”、力づくでもそれを信念化する。無理にでも思い込まなければ、とても耐えることができないのです。


症状は思うようには進んでくれません。1ヶ月後には元気になれる、そう思って1ヶ月が経ってみると、動きはまったく見られない。そうした現実を突きつけられると期限を少しだけ延長してみる。


「あと1週間後には!」といったように。1週間が経ち、ついに良くならないことを悟ると、心が崩れてしまうのです。


すべての希望が断たれてしまった。深く傷つき完全な無気力状態に陥る。自分は一生このままなのだ、もう二度と立ち上がれない。ふと自殺への衝動がよぎるのです。


希望を持ち、それがかなわなかった時の落胆を思うと、一切の希望などはじめから持たない方が良い。それが心の安定にとって最も大切であることが分かってくる。そうでもしないと自分を保つことができないのです。ただでさえ厳しい症状、そこに心まで乱れてしまえば自分はもはや生きられない。


汗をできるだけかかないようにする以外は、何も望まず、何も欲せず、ただひたすら時間の経過に委ねる。もう何も考えない。「いつ治るか?」、「いつまでにこの状態に!」、そうした希望を持つことを自らに禁じることにしたのです。


引っ掻いても、かきむしっても、私の体のあちこちにできたコブは破れてくれません。引っかくと皮膚はさらに弾力を帯び、硬くて厚いゴムを引っかくような感触が残る。何度もそれを経験する中で、これは皮膚の防衛反応ではないかと思うようになりました。そうやって弾力化させることで、皮下組織が破壊されるのを防いでいるのではないかと。


それでも引っかき、皮膚を力いっぱいなんとか破る。その上で皮下脂肪や筋肉の中に入った異物を出血によって排出させたこともありました。でも、それは何度もできることではない。体が壊れてしまう。結局は汗をかかないように、ただ時間が過ぎるのを待つしかないのです。


季節は冬を越え、2008年の春、桜が咲き始めていました。自分は汗に注意して過ごすだけの日々。動きはできるかぎり制限し、ほぼ横になっているのみ。ただでさえ、汗がにじむ季節の到来。にじむと扇風機で風をあて封じ込んでいく。相変わらず、そんなことを繰り返していました。


眩しすぎる外の世界


当時所属していた会社からは「待っているからな」と、常に励ましと優しさに満ちたメールが届きます。待ってくれるのは本当にありがたいけれども、汗をかくことすらできない私。どうすることもできない自分に、また気持ちが落ち込んでいく。


戻れる日なんて果たして来るのだろうか?思いは巡り不安と無力感ばかりで、自分を支えられなくなってしまうのです。


私は外部からの連絡を一切断つことにしました。日常の些細なことがら、それをメールや電話で伝えられると、激しい動揺に見舞われてしまう。外に出ることすらかなわない自分にとって、そうした報告は残酷以外の何ものでもない。そんな風に思うまでになっていました。もはや落胆に耐えるだけの力もない。会社への報告も含めて、すべての連絡を絶つことにしました。


それは壊れそうな心を守るための必死の努力でもあったのです。


唯一の例外は、私と同じように病で苦しむ人々。言葉は悪いのかもしれませんが、仲間同士でお互いの傷を舐めあう。その人たちとだけは共感できる。痛み、苦しみ、悲しさは、同深度・同程度。同じくらいのつらさを経験しない限り、その苦しさを本当に理解してあげることはできない。いつもそんなことを思っていました。だからその方々とは交信を続けていたのです。


病気と向き合うスタンスの違い


外に出られない私にとって家族との時間は密にならざるを得ない。家族といえども、スタンスが違う。父は「また倒れたのか!これからどうする気なんだ!」といったトーンなのに対し、母は「がんばれ!命を賭けてやり抜きなさい!」というスタンス。


父は私に対して、「会社を辞めるように」と忠告していました。「その体で、社会変革などといった大それた理想を持つな、身の丈にあった人生を選ぶように」。その第一歩は、医療機関にかかること、そうした圧力をかけてくるのです。


父も年金生活者。70歳を前にして、私のこれからを心配して言ってくれている。それは十分に分かっている。それでもほぼ身動きが取れない私にとって、父の態度はあまりにも厳し過ぎる。そのように感じていました。母はそうした父から私を守ろうと懸命になってくれました。母がかばってくれることは、この期間における最大の救いだったのです。


“家族でいること”と“家族であること”、その間には大きな断絶がある、そんなことを思っていました。


私も内心においては、医療機関にかかりたい気持ちを捨てられずにいました。体外に出てくれるのならまだしも、滞留し、どうにも出てくれないのだからどうしようもない。もう他に手立てがないのだから、これ以上は仕方がないのではないか?打ち消しても、打ち消しても、その思いがもたげてくるのです。


親戚からの声だってある。やはり医療の力、クスリの力を借りることで、働ける状態になるまで自分を整えよう。どんな仕事でも構わないから。


でも、医療にかかることは私にとってはあまりにも高いハードルだったのです。初めての無医療・無投薬による治療から4年。その間、私は闘病記を公開し、多くの方と知遇を得るチャンスをもらいました。


これまで私の闘病記を読んでくれた方々に何と言って接してきただろうか?何を語り、何を伝えてきたか?


使ってしまったら、その方々に何をどう話せばよいのだろうか?“やっぱりできませんでした”とでも言うのだろうか?使った瞬間に、これまでの4年間のすべてを自ら否定することになってしまう。


思いがそこに至ると、「たとえどんなことがあっても最後までやり抜く」、再び強い決意が甦ってくるのです。父にもその旨を何度も伝えました。「すべてを賭けてやっている。お願いだから黙って見ていてくれ」といったように。


本との出会いが転機に


症状は5月になっても6月になっても、7月入っても変化は見られませんでした。滞留する体内の異物はは減っているのかどうか、実感できないままでいたのです。


汗をかくのは本当につらい。しかし季節は夏へとゆっくり向かっていました。汗を回避することだけに終始する私は、出口をみつけられず無気力のまま。症状に向き合う気持ちも下降したままで、いたずらに時を送っていました。


転機は突然訪れました。それは一冊の本との出会いです。そこには重症で半死半生の状態から、見事に回復していった人の手記がつづられていました。


中村天風氏の運命を拓く (講談社文庫)です。



以前から持っていたものでしたが、その時は読み流して終わり。自分はそれをふとしたきっかけに読み始めました。読み進めるうちに、症状から逃げ続けていたことに気づいたのです。


汗をかくことから、逃げ続けてきた自分。そこに突き破れない最大の理由があると心から思えたのです。


皮膚を破って異物が出ない。それならば汗によって出すしかない。自ら進んで、積極的に汗をかくことで、体の代謝機能をフル稼働させていく。そうすれば、この滞留した薬毒を排出できるのではないだろうか?そう思い立ったのです。


同時に、一錠のクスリも出さない環境臨床医の三好基晴先生も、「一日一回は汗をしっかりかき、代謝を高めるように」と仰っていたことを思い出したのです。


でも、汗をかくことは私にとっては耐え難い苦しみを伴います。体温が上がれば始まってしまう発作の苦しみ、それは恐怖以外の何ものでもない。そのことを思うだけで、心に迷いが生じる。苦しくてどうにもならないからこそ、これまで逃げ続けてきたのではないかと。


それでもその恐怖を乗り越え、打ち勝たない限り、自分は一生このままで過ごさなければならない。もう二度と這い上がることができなくなってしまう、このことに気づいたのです。


体は元の元気な状態に戻そうと、懸命にがんばってくれている。それなのに心が逃げまわって、折れてしまっているようでは、良くなるはずがないではないか?怖いという思いに打ち勝たない限り、永遠に治癒は訪れない。このまま汗をかくことから逃げ続けていれば、自分は2度と立ち直れない。


心がそう定まった時、転機が訪れたのです。


太陽の下での決意


季節は7月下旬。真夏の太陽が容赦なく照りつけていました。その中に身をさらし発汗を促進していく。一番怖かった汗を自ら進んでかくこと。それは再起へのすべての思いと今後の生存のすべてを賭けたものでもあったのです。


期間は1ヶ月と定めました。2008年8月31日の段階で、働ける状態にもっていく。それまでは、何があってもとにかく汗で排毒を促進し続ける。もし8月の末の段階でそれがかなわなければ、今の会社で働くことは諦めよう。


その代わり、この1ヶ月間については一切の妥協はしない。ひたすら太陽の光を浴びることで、必死に汗をかく。逃れようとする自分の弱い心にムチを打つこと、それをテーマに定めました。「絶対に逃げない」と決意し、実行に移しました。


そして8月の1ヶ月間、とにかく太陽の下に身をさらし、汗を流し続けることにしたのです。


炎天下の中、毎日出かけました。海が近いので、誰もいない防波堤に座って太陽光線を身にあてる。ひたすら汗をかくことで、排毒を促していく。耐えがたいカユミの中、強く引っかき皮膚を深くえぐってしまうこともありました。そこに汗が入り、凄まじい痛みに悶えることもありました。それでも私には、この荒療治以外にもはや何も残されていなかったのです。


1ヶ月間はとにかくやり続けよう、そう決めてはみたものの、心が弱くなることもありました。汗をかくつらさ、皮膚をえぐってしまうおぞましさ、そこに汗が入ることによる苦悶、これらを思うと、どうしても心が揺らいでしまう。でも、自分で決めたことだからとその度ごとに強い気持ちを呼び起こす。


「負けない・折れない・挫けない」


中村天風から受けたインスピレーション、そう日に何度も、念仏のように唱え続けました。そうやって自分を叱咤激励しては、炎天下の太陽のもとに飛び出していく。弱い心にムチを打たない限りは、乗り越えられない。今は非常事態。何でもないときならいざ知らず、今は心の力を最大限に上げる時なのだ。困難に立ち向かう、強い心を全身に行きわたらせる時。


そうやって心を鼓舞しない限り、弱くて逃げようとする自分に逆戻りしかねなかったのです。


もし8月31日の段階で仕事ができるようにならないなら、自分は潔く退職しよう。再起に賭けたすべての希望を1ヶ月だけに限定する。それでもしダメなら人生そのものを諦めてしまおう。強烈な決意で汗をかくことに臨んだのです。


体内の毒が暴れ、何度も体を強く引っかく。血が流れ、黄色い毒血がにじみ出てくる。それでも太陽のもとに身をさらし続けたのです。必ず良くなる、もうすぐ元気になれる。“負けない・折れない・挫けない”、そう唱えながら、太陽光線に身を晒す。


それは細くてわずかな希望の線を少しずつ太くしていく作業でもあったのです。


心が弱くなる、汗をかくのはこわい。もう皮膚をえぐってしまい、これ以上はえぐれない。それでも自分で決めたことだからと弱気な自分を叱り飛ばしていく。そのようにして、わずかな希望だけを見つめるように努めました。


希望がある、だから生きていける。絶望してしまったら、もはや生きられない。だから最後の瞬間まで希望を持ち続けよう。心の力を強く上げ続けるのだ。そう念じ続けました。


そうするうちに、体は次第に楽になっていきました。排毒が進んでいると実感できる。それは他の何よりの励み。汗をかくことはもちろん辛いのですが、復帰という希望が自分にはある。こうしてずいぶん長い距離を歩けるようにもなっていきました。


ほぼ八ヶ月間寝込んでいた私の体は当初、短い距離を歩くのも難しかったのですが、とにかく歩く。そのことで次第に体も慣れていきました。体もさらに楽になっていき、復帰への自信も日増しに高まっていったのです。


こうして私は、2008年9月10日に仕事に戻ることができたのです。


再び奈落の底へ


絶望の時間から社会復帰できた、その喜びでいっぱいでした。横浜の実家から会社の近くに引っ越しました。職場も新たになり、克服できた最高の気分での新生活の始まり。


でも、それは長くは続きませんでした。


復帰から1ヶ月が過ぎた頃、私はまた体の異変を覚え始めていました。胸、背中、首、頭の中に再び固い、あのシコリができ始めたのです。そしてそれは日ごとに大きくなっていきました。体には再び悪寒とジーン焼けるような感覚。恐怖の前触れ、イヤな予感が走りました。


9ヶ月の時間を耐え忍び、ようやく仕事に戻ることができた。それなのにまた・・・。ここで倒れるわけにはいかない、思いはそれだけだったのです。もう2度とあの寝たきりで引きこもりのような毎日には戻りたくない。いや何としても戻らない。根性でもしがみついてでも、どうしても職場を離れたくなかったのです。


でも、その思いは断ち切られてしまいました。またしても、その時が訪れてしまったのです。


左側の目の横から左測頭部、耳にかけてできていたシコリが破裂しました。左頭部から耳にかけて、薬毒が流れ始めました。また眼が開かなくなったのです。それを機に、もはや根性も何も通じなくなりました。


2008年11月19日を最後に、私は再び療養に戻ったのです。


新手の事態が


今回は横浜の実家に帰りませんでした。父と決定的に決裂したことが理由です。医療に対する考え方、この場所で働くことへの不同意。そのことで溝は深まっていたからです。私は何があっても、実家に戻ることはできない。どうあってもこの会社の近くの借り住まいで一定の期間を耐えなければならない。私がまた倒れたことを知るや、親戚を含め、冷ややかな視線を感じていました。


排毒はものすごい状態に陥りました。耳の横、背中、胸、腹と蓄積した毒血がとめどもなく流れ始めたのです。あの復帰から束の間のことだから、失意以外の何ものでもない。症状の厳しさよりも、心の崩壊を支えることで精いっぱいになりました。


唯一の光明は、排出が続いていること。出ているから、今回は早く終わるかもしれない。出ることは唯一の希望になっていたのです。


12月も半ばに差しかかると、排毒は緩やかになり、やがて止まりました。でも、今回もそれで終わりとはならなかったのです。これまでとはまったく違う、新手の症状が始まりました。


それは体中に線、チューブが走ったような状態へ。目を疑うような自分の姿、どう表現すればよいのか?今度はシコリではなく、ロープで体を縛ったかのような感じで太くて硬い線が皮下から浮かび上がり、体中にはびこっているのです。


場所によってはものすごく太い。何が起きたのかと呆然とするばかり。


背中は、背骨に沿って5ミリくらいの高さに盛り上がっている。辿っていくとこれも線。通常なら手で触れば、背骨の骨を皮膚の上から感じることができる。しかし私の状態は背骨の上にゴムを乗っけたかのような厚い棒状のシコリが尾てい骨まで一直線に走っていたのです。


それをよくよく辿っていけば頭頂から後ろ首を越え、尾てい骨にまで届いていました。骨を触ることができない。あまりの変化に唖然としました。「何だこれは?一体どうなってしまったのか」と。


お腹にも、あばら骨に沿ったかのように厚い棒状のシコリが3本くらい。背中から水落ちにかけても束ねたかのような線が這っている。腕には糸を巻いた焼き豚のように線が入っている。目の周りはものすごい高さで隆起して硬い。頬も3ミリくらいの高さで盛り上がって、それが喉までつながり隆起している。両アゴ横のラインからは15センチくらいの太さのカタマリが、後頭部からまわってアゴの下、その真ん中あたりで止まっている。



そしてその真ん中のアゴからノド仏を通して水落ちまで棒状のシコリが伸びているのです。両肩も胸も腕も棒を皮膚の下に埋め込んだかのような厚くて硬くて長いシコリ状の棒。


全身、このような状態になっていました。要するに、全身の筋肉という筋肉が全体に隆起している。体中に太い線が張り巡らされた状態になってしまったのです。


途方に暮れました。復帰できたと思うなり、また再びなのですから。しかも今回はそれまでとは異質、有り体にいえばおぞましい状態。この体中にはびこった長くて硬い棒状のシコリ、それが取り除かれる日が果たして来るのだろうか?その厚さと高さの前に、途方もない時間の消費を覚悟せざるを得なかったのです。今度こそは本当にどうにもならない。


症状はひたすらにかゆい。棒は硬くて強くて、何をどうしようとも破れてくれない。それでも汗が出ると全身のカユミが暴れ出す、激しい発作に見舞われてしまう。身を力いっぱい掻きむしっても、爪が負けてしまうような感覚。線は破れる気配をまったく見せてくれなかったのです。


2008年大晦日の晩、額が10センチくらいの高さで隆起していることに気づきました。かつて赤塚不二夫の漫画に“でこっぱち”というキャラクターがいましたが、まさにそんな感じ。これに気づいた時はさすがに心が折れました。もう駄目だ、何もかも終わりだと。


希望と苦しみの二極を


それでも前回と同じで僅かな希望だってもたげてくる。もう一度、元気になりたい。何とかして普通に歩けるようになりたい。ただそれだけのことが困難を耐え忍ぶ力になる。ほんの僅かな希望であっても、それさえあれば人は苦難に耐えることができる。


必ずまた立ち上がって見せる、強い気持ちが甦ってくるのです。


極度に落ち込む気持ちと将来への希望とが入り交ざった状態。先を思えば不安ばかり。棒状の線が取れる日がくるなんて想像がつかない。それでも死はやがて誰にも平等に訪れる。だから生命ある間は生きることだけに専念しよう。一瞬たりとも“死は思うまい”、そのように心に言い聞かせていたのです。


棒状のものの正体が何であるか?肌の色よりも白く透明なもの。針でつついて見ると、無色透明な液体がそこから出てくる。触るとネバネバしている。


「これは一体何なのだろうか?」


考えてもどうにもならないことと思いつつも、「リンパ浮腫なのではないか?」、「やっぱり医療機関に見せた方がいいのでは?」そうした不安も込み上げてくる。それでも、たとえどんな結果になっても、自分の力だけで最後までやり抜いて見せる。最後はいつもここに落ち着いていく。


汗が出ると激しい発作が起こります。今回の程度は激しく、痙攣を伴いました。汗をかこうがかくまいが、日に2度は決まってやってくる。両足をバタつかせ、体中をかきむしり、時間が過ぎ去るのを耐えるばかり。終わるとベタついた汗まみれの状態になって、虚脱する。そんなことを繰り返しました。発作の症状も前回よりも一層、強烈だったのです。


硬く・厚く盛り上がった体、張り巡らされたロープ状のシコリ。もう自分の体といった感覚がない。自分を叱咤激励してみても、現実の残酷さの前に心が沈む。不安一色に染められ、どうにも拭い去ることができない。辛くて苦しくて、心の中は不安と恐怖とで占拠されてしまう。


笑いの効用


そんな時はとにかく無理やりにでも声を出して笑うように努めました。たとえ僅かであっても楽になりたい。とにかく無理にでも笑う。気休めで馬鹿なことだとは思いつつも、そうでもしない限り身も心もそのまま壊れてしまいそうになってしまうのです。


こうした小さな工夫を施さない限り、とても耐えられない。笑うと少しだけ活力がよみがえる、そんなことを実感していました。


母が付きっきりで看病してくれていました。母も不安と落胆と、疲れた様子が見て取れる。母に申し訳ない気持ちが込み上げました。


離れている父は腰痛の手術で2カ月の長期入院となっていました。矢が折れたかのように、ある夜、母はついに泣き出しました。私は「必ず元気になってみせるから」と懸命に訴えたことを思い出します。


私の気持ちが沈めば、母も沈んでしまう。このことを思わざるを得ませんでした。だから母の前では、力づくでも元気で強気を装うことに努めました。もしまた母に泣かれるようなことがあれば、折れそうな自分の心をもはや制御できない。母の心が壊れ、心労で倒れてしまえば家族3人揃っての“連鎖崩壊”に至ってしまう。


それは寝たきりの私にとっては最悪のシナリオ。私たち家族にとって母だけが唯一の頼りだから、自分を守るためにも力いっぱいの元気を振り絞っていたのです。


今回も同じで、最悪は風呂のあと。全身を血流が駆け巡る。出た後は3時間くらいはもだえなければなりません。線が伝い、容赦なく隆起した私の体を強い発作が暴れ狂うのです。


特に厳しいのは、目の周辺。激しいカユミに狂わんばかりとなる。目の近くだからあまり強くかきむしるのは本能的に抵抗がある。だから厚手のタオルで何時間も抑え続ける。“チカラ!チカラ!”とよく分からないフレーズを心に繰り返し唱えながら。ずっとタオルで押さえて嵐が過ぎ去るのをひたすら待つ。それはこれまでにない厳しさだったのです。


好転の兆しも


“来月には良くなる、来月には”と自分に暗示をかけるように日々を重ねていく。またこうして僅かな希望をつないでいく。もう一度、歩いている姿を、働いている姿を何度もイメージすることで、耐え抜こうという気持ちを少しでも奮い立たせる。そして来月になるとまた“来月には!”と目標を立てる。


2月いっぱいで区切りをつけたい。この気持ちが最大限に募りました。症状が比較的小康状態に入ったからです。体中に張り巡らされた線は消えていません。これまでと変わらず、厚く・硬く盛り上がったままなのです。それでも発作が弱くなっていることを感じていました。顔も体も硬く腫れ上がってはいるものの、発作が極端に少なくなっている。



これは好転し始めた証だから、“2月いっぱいで!”と弾んだ気持ちに拍車がかかったのです。


散歩を開始しました。弱くなっているとはいえ、汗に対してはやはりカユミが走る。それでも復活に向けて懸命に歩く。日一日、あと少しあと少しと自らを励まし続けていたのです。


しかし、その時は訪れませんでした。3月にまた強いカユミが全身に走るようになったからです。また一段と激しい発作が私を襲い始めました。やはりダメだった。もうこれ以上は耐えられない。真剣に自殺を思ったのも、この時だったのです。



命ある限り


後で聞いた話ですが、環境臨床医の三好基晴先生は、私が衝動に駆られ、自ら命を断ってしまうのではないか?と心配していたそうです。復帰したと思ったらまた倒れる。2月中と期限を切ったにも関わらず、それもかなわない。おそらく極うつ状態で、いつ激しい衝動に駆られてもおかしくないと思っていた、そう話してくれました。


そうなれば私個人への哀悼はもとより、医者にもクスリにも頼らない生き方、本来の医療のあり方、それらはやはりできないものとして社会から糾弾され、葬り去られてしまうだろう。そうした不安もよぎったと率直に話してくれました。


失意の中で、どうにも進まず、遅々として変化を見せない症状。私は持てあましながら、とにかく生きることだけに専念しようと心に固く誓っていました。それだけは最低限の目標として維持しよう。死を選びたい感情をとにかく封印し、その決意のままで耐え続けていたのです。


季節は春。花が咲き、浮かれムードの中、私は迷いの中にいました。本当にクスリを使ってしまおうか、散々に悩んでいたのです。厳しい症状が続く中、時間ばかりが過ぎていきました。


6月に入る頃、もはや我慢も限界に達しました。何としてでも復帰したい、その気持ちを抑えきれなくなったのです。硬くて長い線に変化は見られない。それでもこの1ヶ月で排毒に変化がなければ、もうすべてを諦めてクスリを使う。そのことを心に決めたのです。もうこんな毎日はこりごりだ。

どんな形でも良いから、社会復帰を果たしたい。その思いが強烈に込み上げてきたのです。


恐怖と正面から向き合う


昨年の夏、あの炎天下の中、汗まみれになりながら歩いた日々のことを私は思い返していました。あと1ケ月で終止符を打たなければならない。そう決めた以上、必死に汗をかかなくてはなりません。でもここは川崎。横浜の実家とは違い往来には人通りが激しい。だから外に出られる時間は限られてしまう。


早朝と深夜でない限り、激しい発作に見舞われたら、周囲を騒がせ、ともすれば救急車などといった事態も想定される。そうした制約はありましたが、私は早朝と夜に懸命に汗をかくことに努めました。


一番怖いお風呂にも積極的に入るよう心がけました。風呂上がりにものすごい暴風雨が待っている、だからこれまではできるだけ入らないように努めていました。でも、ここからは日に1度は必ず入るように、そして体調を見てという縛りはありましたが、なるべく2度入るように努めたのです。


日中往来を堂々と歩けないため、そうやって汗を流す。そのことで体から排毒を促していく。それ以外に方法がない。このようにして、6月いっぱいで何とか!という一念で日々を送ったのです。


6月後半になると、体調は徐々に良くなってきているのを実感し始めました。汗から逃げない、怖いものから逃げない、打ち勝つ心だけがこの厳しい排毒を乗り越える唯一のもの。発作を恐れずより積極的に汗をかいた結果、張り巡らされていた棒状のシコリは次第に小さくなっていったのです。手ごたえを感じていました。


より一層汗をかく努力に拍車がかかりました。強い気持ち、強い気持ちと自分の心を最大限に上げながら。この状況の変化には、正直言って「奇跡」を覚えていました。「いける・いける」と言葉が自然に溢れました。心の状態がどれほど体に影響を与えるか?このことを実感できたのです。


こうして8ヶ月の闘病を終えて、2009年7月6日に念願の職場復帰を果たすことができたのです。


現在の私


もちろんまだ完全な状態ではありません。シコリはいまだ残っています。それでも汗をかいても、発作が起きることもなく、何とか仕事ができるまでに回復しています。トータルで1年半にわたり苦しんできたから、今は何をしていても刺激的です。会社に行けることが嬉しいし、普通に歩け、汗を流せ、そして人と会話できることが嬉しい。当たり前のことなんか何ひとつだってない。


普通に生活できること、ただそれだけのことがどれだけで素晴らしく、どれだけ愛しいものであるか。歩ける、ただそれだけのことがどれほど奇跡に満ちたことかと噛みしめながら、仕事をしています。


今回の闘病で学んだことは、症状と向き合う「心のあり方」です。状況がどんなに悲観的に思えても、決して諦めない。そしてその心こそが無投薬・無医療を行う上での最大の治療薬であり、パワーであること。何度も何度も心が折れそうになり、正直いって、負け続けた1年6ヶ月ではありましたが、わずかな希望だけは最後まで捨てなかった。弱く逃げようと終始する自分の心に打ち勝っていく。


病気や困難と向き合う心のあり方を学ぶことができたのです。


怖いものから逃げない。決してあきらめない。状況がどんなに厳しく絶望的であっても、命ある限りは生きることだけに専念する。運命の不運に見舞われても、心は決して折れない。体はどんな状態になろうとも、最後の瞬間まで治そうと懸命に努力してくれる。そのことに感謝し、生きることへの希望を持ち続けること。私が病気から学んだことはこのことに他なりません。

私にとっての医者にもクスリにも頼らない闘病とは、「折れない心」を作ることでもあったのです。


正常化に向けて


この先、私にどのような未来が待っているかは分かりません。またこの手記をあなたが読み終わる頃には、私はまた闘病生活をしているかもしれません。
無肥料・自然栽培でよく言われるように、土を30年、40年かけて浄化していく。「家で言うなら、自分は柱づくり。家が建つのは孫の代」といわれます。


肥料・農薬によって汚してしまった土、その清算には時間がかかるものなのです。病気は怖い、でもクスリはもっと怖い。そんなことを思わずにはいられません。


それでも、自分には治す力が備わっている。たとえどんなに時間がかかっても、信じ貫いてきたこの無投薬無医療の闘病を最後まで諦めることなく追求していこうと心に誓っています。


そして、この連載を最後までお読みいただけたあなたに深く感謝を申し上げるのと同時に、お願いがあります。


それはどうか、私のようにならないでもらいたいのです。クスリを使う際は、この手記のことを思い出して頂きたい。クスリは本当にありがたく便利なものです。でも、その反面のデメリットについてもきちんと知っておく必要があります。決して魔法のようなものではなく、使ったら使ったでその清算をどこかでしなければならないもの。


私のささやかな体験から言えることは、使ったらその何十倍の強さの報いが待っている。それが今の正直な印象です。また農薬や添加物だってクスリに違いはありません。衣食住の生活環境をきちんと整える大切さを考えて頂きたいのです。


私のようになってからでは正直厳しい。そうなる前にできることはたくさんあるのだから、どうか私のようにならないでもらいたい。心から願うことです。


12年に及ぶ薬歴とその後の自然治癒力にすべてを委ねた7年の闘病が、あなたのナチュラルライフの実現に少しでもお役に立てるのなら、これに優る喜びはありません。


時間がたとえかかっても、体には治すための力が本来的に備わっている。安易にクスリに頼るのではなく、自らに備わった本来の力を高めていくこと。高めていくのか、それとも低めてしまうのか?その選択は私たちの日々の選択の中にある。そのことを申し上げて、私からの報告をお終わりにしたいと思います。


拙くて長い文を最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございました。
心からの感謝を申し上げます。


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