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無投薬・無医療で病気を治す・2003年の記録について

 
※無投薬・無医療でアトピーを克服する。2003年最初の闘病の模様です。


私のアトピー歴は幼少期にまでさかのぼります。


とはいっても、その時はあまりに幼かったので、かすかにしか記憶にありません。2才で発症したと親から聞きましたが、何となく覚えている程度です。


でも、親としては心配。


病院という病院を駆け回り、そのときは2,3の医院を回る程度で済んだそうです。頭にも発疹が出たようですが、クスリを塗っておしまい。いま思えば、ステロイド剤だったのでしょうが、それで片が付いたわけです。


その後は、約20年間、まったくそうした症状はありませんでした。


だから私は野球少年だったし、高校から空手を始め全国大会で三位に入賞するくらい夢中になりました。

それが突如発症したのが21歳の時。

始まりは左の首のあたりに、オデキのようなモノができたことによります。放っておけば治るだろう、その程度にしか思っていませんでした。


ただ時間の経過とともに、オデキが大きくなっていく。友人から”キスマークか?”とからかわれたことを覚えています。


私はそれまで健康そのもので、医者に行く習慣などありませんでした。オデキが大きくなってもさほど気にすることもなかったのです。


でも、母としては見るに見かねたようで、強く医者にいくことを薦められ、近所の皮膚科に渋々と出かけた。そこでもらったクスリは中強度のステロイド剤。これが内外薬歴の最初の処方になりました。


それを塗ると驚くくらいのスピードで症状が治まる。クスリの力はすごいものだなと関心しました。


それから半年くらいは、元の元気な状態のまま。何の症状も出ることなく、大学ライフをエンジョイ。勉学に、ライフワークの空手に、そしてアルバイトにいそしむ日々だったのです。


でも半年すると、また同じ箇所にオデキのような症状が出た。それでも半年前の経験があるから、


“クスリを塗れば良くなる”


何の疑いもなしに塗ってみる。するとまた劇的にキレイになる。でも、3日もするとまた症状が出てくる。そうこうする内に今度は首だけでなく、全身に炎症がおびただしく広がっていきました。体全体におびただしい炎症が起こったのです。


今度ばかりは、クスリを塗ってそれで終わりとはいかない。


塗ってもしばらくすれば、また症状があちこちに出てくる。それに対してまたクスリを塗る。こうして、クスリの使用が常習化していきました。


入り口あって出口なし!


その様は基本的には、覚醒剤と同じ。


使えば使うほど、手離せなくなっていく。量が増え、使う間隔が短くなっていく。弱いクスリで抑えられたのに、それではどうにもならなくなる。こうして次第に使うクスリも強くなり、最後は最強の強度のステロイドを塗るより他にない。


でもそれすらも効かなくなってしまうのです。こうなるさすがに、心配になってくる。


ステロイド剤を塗れば確かに一時的には症状は劇的に改善していく。しかしそれはあくまで一時的なもので決して完治には至らないことは分かってしまう。


あらゆるクスリにいえるなのでしょうが、クスリは症状を「治す」ためのものではなく、「抑える」ためのもの。抑え続けるには、使い続けなければならない。


そしてクスリを使い続ける限りは決して治らない。焦りと不安、切実な思いにからさまざまな情報を得る努力を始めました。


ステロイド剤は、副腎皮質ホルモンといいますが、それは本来人の体から分泌されているもの。激しい炎症を抑制してくれる、私たちの体に備わったとてもありがたい物質です。


でも、アトピーが全身に回れば、体から分泌される分では到底間に合わない。そこで薬剤、ステロイド剤を使って副腎皮質ホルモンを外部から注入する。いわば「外」の力で炎症を抑え込むというわけです。

でも、これにはリスクがある。

外から絶えず供給していれば、本来備わった自分の内なるパワーは退化していく。使わない脳や筋肉が衰えていくように、副腎皮質ホルモンだって自分で分泌することができなくなってしまうのです。


こうした体は衰弱化し、常にクスリなどの外の力に依存するしかなくなっていく。こうした悪循環に陥ってしまうのです。


また、ステロイド剤に使われているさまざまな物質にも当然リスクがある。


通常、私たちはクスリというと、一錠丸ごとが症状を抑える有効な成分のカタマリだと考えています。


でも実際はそうではない。有効成分は一部であって、残りは化学合成添加物。保存料や着色料などといった人工の化学物質から成り立っている。


ステロイド剤も同じで、副腎皮質ホルモンだけではなく、さまざまな人工の化学合成物質が使われている。塗れば塗るほど、これらも一緒に体に入る

ことになるのです。


人工の化学物質は、「入り口あって出口なし」といわれます。脂と馴染みやすく、水に馴染みにくい。


体内に入ると、脂肪となじみ、皮下脂肪に蓄積されるため排出が困難。人工の化学物質が“入り口あって出口なし”といわれる由縁です。


実際に、このステロイド剤を使えば、どんなに体中に症状が吹き出しても、それこそ“あっ”という間に収まっていく。引っかき、ただれた皮膚でさえも、ものすごいスピードでキレイになっていく。


脱ステロイドを試みるも…


それを実感する中でさすがに怖くなりました。そこで、漢方を始めとした、“良い”といわれるものを片っ端から試してみました。


漢方も2年くらいやりました。また入浴剤や温泉治療、骨の歪みを整えることも随分やりました。また最近は聞かなくなりましたが、レーザー治療もやってみた。気功や各種呼吸法といったものもやってみました。


さらに1日1個キャベツを食べるとか、ウーロン茶を毎日2L飲むとか、黒豆や昆布、ひじきといった黒いものをたくさん食べれば良くなるとか、そうした情報を得れば即座にやってみる。自分の尿を塗れば良くなると聞けばやってみる。


それでもどれも難しい。症状は改善しないし、第一、キャベツ一個やウーロン茶2lを毎日なんて続くはずがない。ましてや尿は継続が難しいのです。


こうして結局はステロイド剤を常用することに落ち着いてしまうのです。


大学にだって通わなければ卒業できないし、学校生活を味わうこともできなくなってしまう。社会人になったら働く、そうでない限り生活もできない。


そのために即効性があり、使えば症状はウソのようにおさまっていくステロイド剤を常用する。こうして12年にわたって、ステロイド剤を使い続けていたのです。


私はこうした自分の病気の経験から自然食関係の団体を就職先に選びました。生活協同組合、そして大手有機野菜宅配団体に勤める中、無肥料自然栽培と出会いました。


肥料も農薬も使わない自然栽培との出会い


肥料も農薬も一切使わずに、元気なお米や野菜を作ることができる。むしろ、肥料をあげればあげるほど、作物は弱くなっていく。


生物の原則は過剰に弱く不足に強い。栄養の塊である肥料の投入は虫や病気にたかられてしまい、農薬が必要になる。


自然の野山に肥料や農薬は一切使われない。それでも植物は繁茂し、色づき、枯れていく。そして次なる生命を絶えることなく繋いでいく。


でも田畑となると突如肥料が投入される。有機肥料であれ化学肥料であれ、肥料を使えば農薬が必要になる。

これは人の体も同じではないか?私の症状もまさにこれではないか?


そのように直感し無肥料・自然栽培の世界にのめり込んだわけです。それへの思いが募るにつけ、有機宅配団体を辞め、自然栽培を取り扱う会社に入社しました。


しかし私のカバンやポケットには常に薬(ステロイド剤)が入っていました。転職して1週間を経った頃から体中におびただしい水泡が発生し、どうにもならない状態となりました。


2003年8月に入ってすぐ「体調不良」を理由に、早退した日から約270日に及ぶ闘病が始まりました。


炎症を抑えるため「ステロイド剤」を12年に亘り使い続けてきたのですが、2003年7月にきっぱり薬をやめる決意をし、そこから約270日間の寝たきり生活を余儀なくされたのです。


その間は本当に辛い毎日だったのですが、私を支え続けたのは「自然栽培のお米と野菜」だったのです。


前職では営業という仕事、さらには"自然・安全・健康"を謳っていることから自分がアトピー性皮膚炎の患者であることを隠し続けてきました。薬が強力なこともあってか、病気であることをほぼ知られることはありませんでした。


私はこの病気を隠し続けてきたのです。


ステロイド剤も顔などの皮膚の薄いところに使えば黒ずんでいく。それへの解決策として処方されたのが免疫抑制剤。アレルギーは体の抵抗力の表れでもある。その抵抗力をクスリの力で止めてしまえば反応は出なくなる。


赤黒くならない・色素沈着が起きない“奇跡のクスリ”として登場したのが免疫抑制剤だったのです。私はこれを四年間にわたり使い続けました。そのせいか顔はそれほど黒くなかったのです。

それが薬すら効かなくなってきた、ちょうどそのタイミングで自然栽培の会社に入社したのです。


自然栽培を全国に


私の仕事は個人宅配事業を立ち上げること。社長からは「この野菜を全国に届けたい。磯野には個人宅配の責任者になってもらうぞ」と言われていました。


入社の段階で症状は抜き差しならない段階にありましたが、「ええい!あとは野となれ山となれ!」、こうして私は個人宅配を立ち上げることを職務に入社しました。


でも、あまりにも早くその時は訪れたのです。


手におびただしい水泡が発症した段階で、私は決意していました。以後、クスリは一切使わない。自分の中にある治癒力にすべてを賭ける。


自分はクスリを使うのに、農薬も肥料も使わない野菜を人に勧めることはできない。たとえどんなことがあっても自分は耐え抜いてみせる。


自然栽培の生産者であり、“奇跡のリンゴ”で有名な木村秋則のリンゴの木も肥料を辞めてから7年間は一度も実を付けなかった。それでも今は素晴らしい実を付けているではないか。

たとえ時間がかかったとしても、自分も必ず良くなる。


田畑から蓄積した肥料成分を抜く、自然栽培を志す農家がはじめに取り組む課題ですが、私も長年蓄積したクスリの成分を身体から抜く、断固抜く。無投薬・無医療でやり抜く決意をしたのです。


転職した会社では働けなかったけど、自分の自然治癒力にすべてを賭けてみよう。そして「いつの日か、必ず元気になってもう一度入社のお願いをし

よう」、私の気持ちは固まっていました。


でも、その会社は無投薬・無医療の闘病に理解があり、私が復帰するまでの間、待ってくれると言うのです。


入社後2週間で就業不能なら退職するのが"世の常"のはず・・・。無期限で待ってくれるなんて・・・。

私はこのことに戸惑いと感動を覚えながら。一切の「無投薬・無医療」の治療を開始しました。


深刻化していく


季節は「夏」。


この年は近年まれに見るほどの「冷夏」。とはいえ、恐ろしい寒さとおびただしい水泡に震え続ける日々。「この先どうなるんだろう・・・」、止まることのもない不安と苦痛が私を襲い始めました。


2003年の夏は、こうして過ぎて行ったのです。


「9月に仕事に戻る」、そう決めて1ヶ月耐えていたものの症状は深刻さを増していきました。


水泡はひどくかゆいので、掻くとそこから水が流れる。水の量は日を追うごとに増えていきました。今までクスリで固めていたものが、それを放棄し

た段階から堰を切ったように体外に流れ始めたのです。


8月は出てくる水の色が透明だったのですが、この頃になると黄色に変わり始めました。「蓄積してきた薬剤などの異物が出始めた」、直感的にそのように感じました。血と共に流れ続ける日々。


水が乾くと固まって薄皮となる。体を動かそうとすると傷口とその薄皮に引っ張られ、ものすごく痛い。そうするうちに徐々に身動きが取れなくなっていきました。


首は水が溜まり、ブヨブヨと3段首のようになってきました。足首は通常の3倍くらいに膨らみはじめました。鈍痛に襲われ続けているので足を高く上げる。

そのことで鈍痛を緩和し続ける毎日。


顔は眉の上に水がたまり、ちょっと表現しがたい、"お岩さん"のようになっている。流れた水が固まって目が開かなくなる。顎の下はザックリ割れはじめ、そこから毒血が流れ、やがて固まっていく。口も目も開かない、何をするにも不自由な状態になっていきました。


全身ほぼ同じ状態になったのです。腎臓病、「ネフローゼ」のような症状。辛い毎日でしたが、気づきもありました。皮膚がものすごく柔らかくなっているのです。

ほんの少し引っかくだけですぐ水が流れる。これは薬剤などの体内に蓄積した異物を体外に出すための作用で、全身一丸となって、「出すんだよ」という合図ではないかと思っていました。


しかし体力も気力も落ち始め、憔悴していくばかりの毎日だったのです。


「磯野の今の仕事は食べることだぞ!」と会社の社長や仕事を通して知り合った『買ってはいけない』の著者・環境臨床医の三好基晴先生から「辛くても何でも、とにかく食べろ!吐いてでも食べろ!」と電話やメールで厳しく言われました。


無投薬で自然治癒力にすべてを委ねる以上、体力がすべて。食べない限り治癒はない。だから懸命に食べ続ける日々が続きました。


主食の意味


私たちの身体は、炭水化物を取ることで必要な栄養分を体の中で作ります。「主食」の米はその材料です。米を媒介に体内でブドウ糖に作り変え日々の「活動源」にしているのです。


だからクオリティーの高いお米を食べることは、良い水を飲むこと、自然に呼吸すること、よく眠ること、これらと同じように本質的で根源的な営みになるのです。


「おかずはいいから米だけはなにがなんでも食べろ!」、この言葉のままに会社から定期的に送ってくれる自然栽培のお米を食べ続けた日々。


傷と皮が突っ張った状態で、背中を伸ばすことは辛いことでしたが、丸まった背中と腰で何とか台所に立ち続けました。


割れた顎の下は口を開くたびに裂け、そこから血が流れる。何とか口を開き、泣きながらお米を食べ続けた日々。ほとんど開かない口だったため、食べ終わると周りにご飯粒がたくさん付いているような有りさまでした。


食べることはものすごく辛いことでもあったのです。


私は自然栽培の米と少しの野菜を食べ続け、そのことで自分の治癒力を含めた生命力を引き出す。元の自然な体に戻そうとする体の営みを妨害しない。こうした選択だったのです。


1人での闘病


この間、多くの親しい人から「とにかく放っておくのはまずい。病院に行け!」とか「そんな状態で1人でいるのは無理。両親に話しなさい」と、忠告を受けていました。


しかし私はこの症状に1人で耐え続ける決意でいました。確かに両親にすべてを話して、炊事・洗濯から解放されたらどれだけ"楽"になるだろうか・・・、心の中に「迷い」も生じました。


しかしこんな状態を両親が見たら何が何でも病院に連れて行くだろう。母親に涙ながらに説得されてしまえば、覚悟が揺らいでしまうかもしれない。

「黙ってみていろ!」、それは私の両親にはあまりに酷だと思ったのです。


こう考えると、「たとえどうなっても、最後まで1人でやり抜く」、そういう強い気持ちが湧き上がってきました。


私はこの治療を自分の体を使った「実験」と考えていました。12年も薬を使い続けたにも関わらず一向に良くならなかった症状。これがどうなっていくのかを耐え続けることで確かめたかったのです。


そしてもし元気になれたなら、肥料も薬(農薬)も使わない「野菜」を売る資格を与えられるのだろう、そんな風に感じていました。


しかし実際は余っていた薬を目の前において、これを塗りさえすればたとえ"一瞬"であってもどんなに楽になるだろうか・・・。あと2時間頑張ったら塗ってしまおう、今日までは頑張って「明日になったら」、そうやって何とか日々を繋いでいったのです。


「この先、何年もこのままかもしれない・・・」、ゴールの見えない闘病は尽きることのない不安との闘いでもありました。


体を暴風が襲う


生産者の木村秋則さんのリンゴだって肥料・農薬をやめてから真っ二つに裂けた木があったではないか?今の自分はその状態で、もう少しすれば必ずよくなっていく。そう自分に言い聞かせてみる。でも木村さんのりんごの木は7年もの間、実をつけなかった。


果たして自分はあと7年も耐えきれるのだろうか・・・、もう一人の自分がすぐに打ち消そうとする。


それでもすべてを賭けて始めたこと、そうやって気持ちを整理し、余計なことは考えないように努めました。


最大の快楽でもあり、苦痛でもあったのが入浴です。湯船に漬かることは出来ないので、シャワーで突っ張った皮を少しずつ洗い落とす。たとえわずかな時間であっても、あの突っ張り感から開放されるわけですから、これはまさしく"至福の時"。

それもつかの間、入浴後には"地獄の苦しみ"が待ち受けているのです。


体温の上がった全身を毒が駆け巡る、そうとしか言いようのない暴風に襲われ続けます。この苦しさはちょっと表現し難く、うめき苦しみながら嵐が過ぎ去るのをただ耐え続けるしかないのです。


嵐が去った後は疲れ果て、自然と眠りに落ちていく。この恐怖のあまり、短くて2時間、時には4時間も風呂場から出られない日々が続きました。


長時間の入浴による脱水症状を避けるため、ペットボトルを凍らせた水を常時4本持ち込みました。「もうダメだ!もうやめてしまおう」、何度そう思ったか分かりません。


一筋の希望


ある日、会社から送ってもらった無肥料・自然栽培の野菜、ピーマンとナスがダンボールの中で枯れてミイラ化していることに気づきました。植物の自然な姿に違うことなく実をつけ、やがて枯れていく。これを発見し、手にとってみた時、崩れ落ちるような感動を覚えました。


気持ちが弱くなるたびに、この枯れたピーマンとナスを手にとって眺める。腐るのではなく枯れる。すると「絶対に負けない!」、そんな強い気持ちが甦ってくるのです。


また私の部屋にはパキラの木があったのですが、闘病開始からずっと水をあげられずに枯らしてしまいました。どうすることもできずにそのままになっていたのですが、ある朝、芽が出ていることに気づきました。


枯れてしまったこの木の中で一体なにが起きていたのだろう・・・、そこに自分の今とこれからの姿を投影せずにはいられませんでした。この小さな芽は私に何かを伝え励ましてくれている、無条件にそう信じ、必ず自分も元気になれるという確信を強くしたのです。


10月も終わり気温が一段と下がり、寒さに耐えられなくなってしまいました。もはや台所に立つことが不可能になりました。一人での闘病が限界に達したことを認めざるを得なくなったのです。どうしようかと悩んだのですが、母に電話し、思い切ってこの3ヶ月半のことを伝えました。


母は涙声でしたが、治療に関しては一切口を出さないことを約束してくれました。一方、父は複雑な思いがあったようですが、同じように約束してくれました。こうして私は実家の両親のもとへと戻りました。


私が来るなり床に皮膚が散乱しましたが、母は日に何度となく掃除をしてくれました。また嗚咽しながら苦しむ自分に対し、何も言わずに身体をさすってくれました。


母がある時、「自分の命を賭けてやると決めたこと。このことであなたがどうにかなったとしても、それはしょうがないことだわ」、そんな風に話してくれたのです。 


実家ではつらい家事から解放されたこともあってか、心もすごく安定していきました。いつも両親がそばにいて、いろんな話しができることはありがたく、よく眠れるようにもなりました。11月、12月と両親に見守られながら症状は終息へと向かい始めました。


やがて散歩ができるようになりました。そしてお風呂から15分で出られた時の歓喜は忘れることができません。


こうして2004年1月の始業から、私は仕事に戻ることができたのです。そして自然栽培の個人宅配事業を立ち上げ、試行錯誤の末、どうにか軌道に乗せることができました。


2度目の闘病


そうするうちにまたその時が訪れたのです。

無事離陸できた喜びも束の間、再び試練の時を迎えました。4月に入ると再びものすごい悪寒に襲われ、以前のあの反応が始まったのです。この間、環境臨床医の三好基晴先生からも「第二波が来るよ」と予言のように言われていました。


仮に1回の排毒ですべて出し切ったとすれば体力が持たずに死に至ってしまうそうなのです。こうしたことを身体はきちんと知っていて自然に調節する。


一波、二波、三波といった具合に間隔を置いて訪れるそうなのです。それぞれに間隔があり、その間に体力の回復を待ち、次の波が訪れる。そうしたすごい仕組みが体には備わっている、そう解説してくれました


そして私にとって2度目の闘病が始りました。無念さと桜が咲き乱れる中での闘病開始。頭では分かっていてもどうすることもできないイラ立ち。


「何で自分ばかりがこんな目に遭うのだろう」


自然と浮かぶこの思い。この世の春、そんな風に何となく浮かれて見える季節とは裏腹にどこまでも沈んでいく自分の心。そして再び訪れた身体の苦痛。しばらくは両親にも言えず、一人でいましたが次第に身体の自由を失っていきました。こうして再び横浜の実家へと戻りました。
 

前回はまったく初めてのことで、まさに無我夢中。今回は二度目、すでに経験済みのことである程度の"耐性"が備わっていることを感じていました。厄介なのは「無力感」。


新しく立ち上げた自然栽培の宅配事業はうまく回っているだろうか?会社のみんなには迷惑をかけていないだろうか・・・。どうにもならないことを思い続ける。


2度目の排毒はこうした自分の心のあり方に向けた試練であると感じていました。それでも2ヵ月半くらいで症状が収まり、6月の半ばくらいには会社に戻ることができました。


そして3度目が・・・


嬉しい気分もつかの間、復帰して1週間も経たないうちに恐ろしい寒さと身体の症状が始まったのです。そしてまたしても仕事を離れざるを得なくなりました。


自分はこの繰り返しの中で生き続けなければならないのだろうか?責任を持って仕事に取り組むことはできないのだろうか?こうした思いに心が覆われてしまうのです。でも、体は自分が犯した過ちを元の状態に戻そうと必死になってくれている。

それなのに心の方が折れてしまってどうする!?そう自分の心を叱咤激励し続けたのです。


そして時間の経過とともに症状は次第に良くなっていきました。こうして約270日にわたる私の「闘病」が終わりました。その後は元気に働いています。

終わりに代えて


つらくて厳しい毎日でしたが、振り返ればわずか270日のこと。終わることなく訪れる痒くて辛い症状、一生手放すことができないと思っていた薬、常に余裕のなかった自の心。これらと分かれることができた喜びは命をもう一つもらったとしか言いようがありません。


それまでの12年間の苦悩、薬漬けの日々から卒業するための"命の洗濯"がこの270日間であったと感じています。


私がこの苦しい闘病で学んだことは「生命とは本来的に完全である」ということです。問題は生命そのものが持つ力を高めていくのか?それとも低めてしまうのか?このことに尽きるのではないかと感じています。


身体には本来の状態に戻そうとする力が備わっている。病気の症状とはそのために必要な過程で、辛いからといってクスリで抑え込むことは"問題の先送り"に過ぎないのではないかと感じています。


たとえ時間がかかったとしても、根本的な解決は「身体の防衛力」を高めることでしかないと感じています。


私の薬歴、そしてこの間の排毒はまさにそのことであったのです。この長い文を読んでくださった皆さんが毎日の暮らしや実際に病気に直面した時に、少しでもこのことを思い出して頂ければと願うのです。病気に頼らない生き方、病気や症状と今までとは違った角度で向き合うことができるのではないかと思うのです。


肥料も農薬も使わない野菜やお米、そして本物の発酵食品を食べることは、完全である身体の能力を高め、本来の力を発揮させていくことに他なりません。それらを少しずつでも身体に入れることの意味、自分の体験を通じて多くの方に伝えていきたいと思っています。

これまでとは違った食や医療のあり方、さらには家族が元気に生きるための一助になればと心から願います。


私の個人的な長文を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。



闘病余話


闘病記の公開後、多くの方から「今の状態を詳しく教えて欲しい!」とか「どんな食事をしているのか?」といったありがたい質問をたくさん頂きました。そこで、本編では触れられなかった内容を「総集編」と題してお届けします。


実は8月に3度目の復帰をしてから、しばらくは不安定な状態が続きました。時折、凄い寒さに襲われたり、軽い発疹が出たりという状態だったのです。転機は10月の頭に訪れました。それは40度の熱が10日間続いたことがきっかけだったのです。


鼻水と痰が続き、高熱にウナされ続けました。それは苦しいことだったのですが、よくよく思い返してみれば、40度の熱が出るなんてことは記憶がないのです。そんなことがあったなというくらい、久しぶりの出来事だったのです。特に薬を使い続けてきたこの12年間は熱が出たとしてもいつも微熱。すごく熱が出にくい体質だったというのが偽らざる感想です。


そして熱が下がってからは、不安定な状態は本当になくなってしまったのです。悪寒や発疹といったことはまったくといって良いほどなくなりました。


熱が出ている間、環境臨床医の三好基晴先生からは「熱が出るくらいまで元気になったんだなぁ」と言ってくださいました。


私はお米を日に4合食べます。もちろん無肥料・自然栽培のお米です。お昼に会社で弁当を広げると周りからは「何度見てもすごい!」とよく言われます。周囲からは「世界で一番自然栽培米を食べる男」と言われたりもしています。


おかずは本当に少しだけ、味噌汁は毎日朝と晩に飲み、1ヶ月で2パック使いきっております。外食はほとんどしません。


以前はお酒も飲んでいましたが、今は飲めません。すぐに頭が痛くなったり、飲めば戻してしまうことが分かり、「こんな苦しい思いをするくらいなら」とまったく飲まなくなりました。これも身体が"清まった証"であると自分では思っています。

お茶もよく飲みますが、すべて自然栽培のものです。


闘病12年、どんなに願っても、何をやっても手にすることが叶わなかった健康のありがたさを今は日々かみ締めています。感じることは「健康は1日にしてならず」、このことです。その思いから日々の食事や生活環境には注意を払い続けています。もちろんすべての薬剤やサプリメント・栄養補助剤の類は一切使っておりません。

今後とも元気に、そして健康に、与えられたこの生命を燃焼していきたいと思います。




無投薬・無医療で病気を治すA〜2008年の記録〜


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